タイ王国 国歌「タイ国歌」
タイ王国 国歌「タイ国歌」
タイトル
เพลงชาติไทย(確認中)/タイ国歌
「国歌」と表記する場合もある。
作詞
หลวงสารานุประพันธ์(Luang SARANUPRAPAN) /日本語確認中
1896年8月24日タイ バンコク生まれ。小学校で教師を務めた後、王国陸軍士官候補生アカデミーで教鞭をとった。辞任後は広報局の長官に任命される。1954年6月14日バンコクにて逝去。
作曲
พระเจนดุริยางค์(Phra JENDURIYANG)/確認中
1883年7月13日バンコク生まれ。宮廷でトランペットの教師をしていたドイツ系アメリカ人移民のジェイコブ フェイトの息子。シャム最初の西洋スタイルのオーケストラの事務補佐官に任命され、のちに王立西洋弦楽オーケストラの所長となる。しかし国歌を作曲したことが理由で解雇されてしまい大学教授を務め、プミポン国王らを教えた。1968年12月25日バンコクで逝去。
採用年
1939年12月10日
閣議決定によって定められたという情報あり。
成り立ち
タイ国歌の始まりを知る前に現在の王室賛歌の歴史を知る必要がある。
最初の王室賛歌は1852年のシャム王国ラーマ4世(“王様と私”で知られる人物)の治世、イギリスからのお雇い軍人が英国国歌『神よ女王を護り賜え』のメロディーを王室歌として使用するよう進言し採用される。後にPhraya Sisunthonwohanによってタイ語の歌詞が加えられ『เพลงจอมราชจงเจริญ』と呼ばれた。
1871年、ラーマ5世がシンガポールを訪問した際、英国軍楽隊が国王の訪問を歓迎するために『神よ女王を護り賜え』を演奏した。自国と英国の植民地下にあるシンガポールが同じ国歌が流れた。これにラーマ5世は独自の国歌の必要性を感じたと言われる。さらに同じ外遊でバタビア(インドネシアのジャワ島)に訪問した際にはオランダ人から歓迎のために流す国歌を聞かれた。国王は帰国するとタイ音楽の専門家たちに、王室の歓迎の儀式に使う音楽を作るよう指示。そこで音楽家たちが選んだのがラーマ1世の時代に作成された“Sarasern Phabarami”だった(これが初代王室賛歌という意見もある)。しかし、タイの伝統音楽は西洋のマーチングバンドが演奏できるように簡単にアレンジできず難航。国王は『神よ女王を護り賜え』に感銘を受けていたことから、オランダ人でタイ王立騎兵隊のバンド指導者のHevutzenに作曲を依頼。Hevutzenは、『神よ女王を護り賜え』と“Sarasern Phabarami”の両方を念頭に置きながら、2つの作品のスタイルとテーマを融合させ、『บุหลันลอยเลื่อน』を完成させた。作詞はNarisaranuwadtiwongが担当。その後、歌詞がラーマ6世(ドーハ大使館では6世だが、首相官邸資料ではラーマ7世)の命により修正され、現在もタイ王室賛歌として使われ続けている。
ここから、賛歌ではなく国歌の歴史になる。
1932年、立憲革命によって絶対君主制から立憲君主制に移行。同年6月24日は憲法が制定され、国王が国家元首となった数日後、『มหาชัย(マハチャイ)』という王室歌として使われていた曲のメロディを使うようにという国務大臣の指示にChaophraya Thammasakmontriが歌詞をつけた暫定国歌が完成する。しかし、王室賛歌のメロディがあることが問題にあり2年で使われなくなる。(『มหาชัย(マハチャイ)』は国歌として採用されていないという説もある。)
時間を戻し、立憲革命が起こる1年前の1931年。後の国歌を作曲するPhra Chenduriyangが軍楽隊で訓練をしていた。ある日、上級士官に呼ばれ士官の友人と会う。音楽の話で盛り上がったという。何度か会ったある日、その士官の友人から「フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』のような曲を作って欲しい」と依頼される。Phra Chenduriyangは国王賛歌があるとして依頼を拒否。後に依頼者が共産主義者だと知り、当時革命の噂もあったことから政治に関わりたくないと怯えたと作曲者が証言している。
革命の5日後、再び国歌制作の依頼があり断りきれず、名前を明かさないことを条件に7日間もらい国歌を制作した。最終日、路面電車に乗っている時、頭にメロディが浮かび紙に起こし制作したという。(ここまで作曲家の自伝をもとに書いたが、証言の日数が合わなかったり、フランス国歌をモチーフにした曲を依頼されてこのメロディなのかなど信憑性に疑問を持つ研究者がいる。)
1934年、国歌を決めるコンテストが行われ8月20日新たな国歌『เพลงชาติสยาม』が採用された。メロディをPhra Chenduriyangが作曲し、このメロディに合わせKhun Wichitmatraが作詞を行った。この国歌の始まりは重要なところではあるが様々な説がある。
・コンテストでは2つの曲が選ばれたが国歌が2つあるのはおかしいと1つに絞られた。
・1934年12月20日に公表された歌詞はコンテストで1等を取ったKhun Wichitmatra の2節に加え、2等をとったChan Khamwilaiの歌詞が2節加わり合計4節の国歌となった。しかしこれは長すぎて歌われなくなった。
などがある。
タイの大学教授が詳しく調査しており、論文を精査し改めて記載したい。
1939年、人民党に所属し、立憲革命の中心人物でもあるプレーク・ピブーンソンクラームが首相となると国名を“シャム”から“タイ”に変更。プレークは新しい国歌制作に取り掛かる。メロディはPhra Chenduriyangのもので、これに合う歌詞を公募。600以上のエントリーがある中、Luang Saranuprabhandhによって書かれた歌詞が優勝した。前国歌の作詞家Khun Wichitmatraは提出を求められたが「争いはしたくない」と拒否したと言われている。プレーク・ピブーンソンクラームは「民主主義は私たち一人一人にある」を「国民国家、タイのあらゆるものが国民に属する」に変更することを指示。タイトルも“シャム”から“タイ”になり『เพลงชาติไทย(タイの国歌)』と改められた。1939年12月10日から現在まで変わらず歌われ続けている。
EXCELSIOR
♪
憲法では、明記されていない。
♪♪
国歌のタイトルに言及する法律は確認できなかった。
「国民文化に関する王立令」によって、国歌を尊重することが義務付けられている。
♪♪♪
国内全てのテレビとラジオ、学校や町中で毎日8時と18時に国歌が流れる。音楽が流れる際は、立つことが求められているが、例外として車の運転手などは除外されている。2007年、運転手を例外としない法案が提出されたが廃案となった。
♪♪♪♪
歌詞に手を加えたプレーク・ピブーンソンクラーム首相。最終的に国を追われカンボジアを経由し、知人の多い日本で晩年を過ごした。最後の1年は相模原市南区御園に移り1964年に逝去している。
♪♪♪♪♪
近年の研究により、制作者たちの証言に事実と異なる部分があることが分かっている。
♪♪♪♪♪♪
ブラームスの交響曲第1番からインスピレーションを得て作曲したという情報がある。
歌詞
ประเทศไทยรวมเลือดเนื้อชาติเชื้อไทย
เป็นประชารัฐ ไผทของไทยทุกส่วน
อยู่ดำรงคงไว้ได้ทั้งมวล
ด้วยไทยล้วนหมาย รักสามัคคี
ไทยนี้รักสงบ แต่ถึงรบไม่ขลาด
เอกราชจะไม่ให้ใครข่มขี่
สละเลือดทุกหยาดเป็นชาติพลี
เถลิงประเทศชาติไทยทวี มีชัย ชโย
歌詞 日本語訳
歌詞 カタカナ読み
国歌に関するリンク
【Royal Thai Embassy, Doha“Thailand Information”】
【History of the Royal Anthem of Thailand“HISTORY OF THE ROYAL ANTHEM OF THAILAND”】(アーカイブ)
【The Secretariat of the House of Representative“สำนักนายกรัฐมนตรี คณะกรรมการเอกลักษณ์ของชาติ”】
【Thammasat Journal “HISTORY OF THE ROYAL ANTHEM OF THAILAND”】(アーカイブ)
【ไทยรัฐ“ประวัติน่ารู้ของ “เพลงชาติไทย” รวมเนื้อเพลง ตั้งแต่อดีต-ปัจจุบัน”】
【ABC “Thai national anthem could stop traffic”】
【Bangkok Post “Patriotism remixed”】
【タウンニュース “元タイ首相題材映画 市内皮切りに撮影開始”】
【khaosod “เพลงชาติไทย(ตอนจบ)”】
関連記事