日本 国歌「君が代」
日本 国歌「君が代」
タイトル
君が代
作詞
古今和歌集の343番を元に作成
古今和歌集“賀歌”にある読み人知らずの343番が元になっている。
作曲
奥好義 /おくよしいさ
1858年9月京都生まれ。1870年に上京し雅楽局の玲人となる。海軍軍楽隊に混じり西洋音楽も積極的に学び、現在のお茶の水女子大学や東京藝術大学などで教師も務めた。1933年3月9日病気により逝去。
法律上は林広守となっているが史実は奥好義が作曲した。当時の雅楽課では大事な曲を作った際は代表者名義で発表するのが慣例で、そこで選ばれたのが林だったと言われている。
採用年
1999年8月13日
上記は国旗国歌法が施行された日。慣例としては1880年11月3日から国歌として使用されている。
成り立ち
1869年、アルフレッド英国王子が日本に来日することが決まり、明治政府は初の西洋王族との交流に不備がないよう準備が進められていた。そんな中、横浜に駐屯していたイギリス陸軍軍楽隊長ジョン ウイリアム フェントンから王子の来日時、外交儀礼として英国国歌とともに日本国歌を演奏するため日本の国歌を教えて欲しいと問い合わせが来る。しかし当時の日本には国歌という概念がなかったため、急遽作成することとなった。国歌作成に関しては王子訪日の準備をしていたメンバーで行われ、まず歌詞を古歌の君が代を使うことに決める。これは江戸時代の大奥で元旦の儀式で将軍を讃える歌として使われていたことから。曲は「君が代」の歌詞が使われていた鹿児島で歌われていた愛唱歌「蓬莱山」の一説を用いることに決め、フェントンの前でこれを歌い楽団が演奏できるようにフェントンが楽譜に起こし編曲(またはゼロから作曲)をする。(諸説ある中の一説に過ぎない。)1869年8月29日にアルフレッド英国王子が到着し、薩摩藩楽隊によって初代『君が代』が無事演奏された。
しかし、使っていく中で音楽隊の内外で「歌詞とメロディが合っていない」という意見が出てくる。1875年ごろ、初代海軍軍楽隊長の長倉彦二から日本の音節を用いることなど君が代の修正案が書かれた「天皇陛下ヲ祝スル樂譜改訂ノ儀」と題する上申書が提出され、宮内省と修正作業の方向が決定した。しかし、西南戦争によって作業は進まず、1880年1月海軍音楽隊が宮内庁雅楽課に指導を要請するなどしていたが、音楽隊は制作を断念。その後、宮内省の雅楽課よって作業が進められる。いくつかの候補が作られたが選ばれた現行の君が代の基礎は牛込見附にあった雅楽稽古場で宿直中だった奥好義が作曲したもの。この場にいた同僚の林広孝が、作品の出来の良さに新国家の候補選抜に関わっていた父親の林広守に奥の作品を渡し候補に加えられた。同年6月29日宮内省から海軍省に試作品の試聴を依頼する。複数ある中から奥の作品がエッケルトによって選ばれ、和音をつけ洋楽器用に編曲された。西南戦争もあり契約が更新されず帰国したフェントンに代わり軍学教師としてドイツから招かれたのがエッケルトで、日本においても音楽技術向上に貢献したとされ、離日後には旧韓国国歌の作曲も行なっている。同年10月25日、エッケルトや林広守などの宮内省の伶人が同席し試演奏が行われ、伶人たちから修正依頼が入ると、同日中にエッケルトが楽譜に起こし、現行の『君が代』を完成させた。初演は10月31日の雅楽大演習の時。海軍省は11月3日の天長節に合わせ現行の君が代に切り替えることを通知し宮内庁も同意した。
1999年8月9日「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が国会で成立、13日に施行され法的根拠を持って現行の『君が代』が国歌となった。
EXCELSIOR
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憲法での記載はない。大日本帝国憲法でも記載はなかった。
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1999年に施行した「国旗及び国歌に関する法律」では制作者の名前が入った楽譜と歌詞が記載されている。
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フェントンから音楽の指導を受けていた鹿児島藩士が合宿していた横浜市中区にある妙香寺が君が代誕生の地とされ、毎年10月には初代君が代の演奏が行われる。
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“君”が何を表すのかさまざまな意見があり、天皇、恋人、友人、国などの解釈がある。
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『初代君が代』と『現行君が代』には共通点があり、初代を踏襲して作られたのが現行版と考えられている。
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世界でもっと短く、もっとも古い歌詞の起源まで遡ることの出来る国歌
歌詞
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
国歌に関するリンク
辻田真佐憲 著『ふしぎな君が代』幻冬舎新書、2015年
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