チェコ共和国 国歌「我が祖国はどこに」

チェコ共和国 国歌「我が祖国はどこに」

タイトル

Kde domov můj(確認中)/我が祖国はどこに

“?”が付いているタイトルも散見されるが、政府サイトなどでは確認できなかった。

作詞

Josef Kajetán Tyl /確認中

1808年2月4日、チェコ クトナー・ホラ生まれ。大学を中退し1834年アマチュア劇団の設立に参加するなど、ドイツとチェコで様々な劇団で活動し俳優として舞台にも立った。1835年にはチェコ語で初めてシェイクスピア作品(リア王)を翻訳している。1848年のチェコ革命に参加。革命後は民族主義者として警察にマークされ、会社を立ち上げようとしたができなかったりと経済的に苦しい日々を過ごす。1930年代~40年代には雑誌編集者としても活動。晩年、プラハを離れ俳優として生計を立てていたが、1856年7月11日公演ツアーで訪れていたピルゼニ(ピルスナー ウルケル発祥の地として知られる)で逝去。

妻は公演ツアーを一緒にしていた女優で、死産を経験して以降子供は授からなかった。しかし、夫婦と一緒に暮らしていた妻の妹と愛人関係になり、彼女との間に7人(8人という説も)の子供をもうける。3人の同棲はJosef Kajetán Tylが死ぬまで続いた。ちなみにその愛人となった妹は、Josef Kajetán Tylの死後、彼の同僚と再婚し3人の子供を産んだ。

作曲

František Škroup /確認中

1801年6月3日、チェコ オシツェ生まれ。作曲家の父から音楽の基礎を学ぶ。1812年にプラハに住み、地元の教会で音楽を学んだ。大学で法学を学んでいたが音楽への好奇心が勝り中退。Teisinger’sAmateur Theaterで歌手(バリトン、テノール)、伴奏者、アシスタントバンドリーダーなどを務め、1824年からEstatesTheaterでドイツオペラの歌手になる。1837年、エステート劇場で最初のバンドマスターに就任。20年間在籍後、解雇(理由は不明)されると同年、音楽学校を設立するも2年で廃校となる。1860年、ŽofínAcademyのディレクターに就任し、1年後にはオランダのロッテルダムに新しく設立されたロッテルダムオペラハウスのバンドマスターに就任した。1862年2月7日、オランダ ロッテルダムで逝去。
2001年には生誕200年を記念し硬貨が発行されている。

採用年

1990年3月13日

憲法によってチェコ国歌が法的な地位を得た日。

成り立ち

František ŠkroupがJosef Kajetán Tylの言葉に合わせて作曲した『我が祖国はどこに』は、戯曲「フィドロヴァチカ  あるいは怒りもなく争いもなく」で盲目の老年ヴァイオリニストが故郷を想いながら歌う挿入歌として、1834年12月21日にエステート劇場で初演がなされた。この喜劇の興行成績は芳しく無く、初演の3週間後に再演されたきりとなっている。

しかし、この曲が歌集「Věnec zpěvů vlasteneckých(愛国的な歌の花輪)」に掲載され話題となり、学校や劇場などで歌われ、非公式のチェコ国歌としての地位を確立。第一次世界大戦中は兵士たちの間で歌われ、1917年にはプラハの劇場で再演された。『我が国はどこに』が歌われると観客は立ち上がり涙を流す聴衆がアンコールを求め、この歌を合唱したと言われている。この年に同公演が70回行われた。
1918年にチェコスロバキアが誕生すると、国歌選びが難航。慣例として1番を今のチェコ国歌『我が祖国はどこに』、2番にスロバキア国歌『稲妻がタトラの上を走り去り』が歌われた。同年12月下旬、国防省が国歌扱いにすると、他の省庁も同様の扱いをするようになる。政府決議でのちのチェコ国歌も含まれる『チェコスロバキア国歌』が国歌とされたのは1920年。法的根拠を持ったのは1927年に政府決議第19300号が出てからのことだった。
1990年3月にチェコ国民評議会がチェコ国歌の存在を憲法で制定。その後、チェコスロバキア連邦議会が、国歌をそれぞれの国に分けると宣言した。
1992年、チェコ国民評議会はメロディと歌詞、楽譜を採用。1993年1月1日に施行され、初めて公式に単独の国歌とし演奏がされた。

EXCELSIOR

憲法では国歌が国の象徴であること、法律によって定められると明記されている。

♪♪

1992年に採用された「チェコ共和国の国のシンボルについて」によってタイトルや歌詞、メロディ、楽譜などが定められた。

♪♪♪

国のシンボルへの侮辱は最大30,000 CZKの罰金が科せられる場合がある。

♪♪♪♪

プラハの春国際音楽祭のオープニングコンサート冒頭に国歌が演奏される。

♪♪♪♪♪♪

1992年12月31日の深夜にチェコスロバキア国歌が最後に演奏され、1993年2月2日の午後2時に、チェコ国歌が法的根拠を持って初めて演奏された。

♪♪♪♪♪♪♪

チェコスロバキア分裂後、新国歌を制作する案もあったが『わが祖国はどこに』を国歌として採用する案に反対した議員はわずか3%だった。

♪♪♪♪♪♪♪♪

2018年、チェコスロバキア創立100周年という節目に国歌を見直そうという議論があった。チェコ オリンピック委員会のJiříKejval会長は威厳にかけ短すぎると発言。そこで委員会が中心になり、2番を復活させ新たに編曲を行い公表したが、国民の賛同を得ることができなかった。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪

Josef Kajetán Tyl の生誕地クトナー・ホラは世界遺産に登録されている。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

「フィドロヴァチカ」は革を滑らかにするための靴職人の道具

歌詞

Kde domov můj,
kde domov můj.
Voda hučí po lučinách,
bory šumí po skalinách,
v sadě skví se jara květ,
zemský ráj to na pohled!
A to je ta krásná země,
země česká, domov můj,
země česká, domov můj

歌詞 日本語訳

 

歌詞 カタカナ読み

 

国歌に関するリンク

【Government of Czech Republic “The Czech national anthem”】

【The Ministry of the Interior of the Czech Republic “Státní symboly České republiky”】

【Parliament of the Czech Republic “Constitution of the Czech Republic”】

【Parliament of the Czech Republic o státních symbolech České republiky”】

【Vláda Czech Republic “Státní symboly”】

【Národní divadla“Josef Kajetán Tyl”】

【Národní divadla “František (Jan) Škroup”】

【České muzeum stříbra “Josef Kajetán Tyl”】

【チェコ共和国 オフィシャルブログ クトナー・ホラ(Kutná Hora)”】(アーカイブ)

【BBC “Czechs consider national anthem update”】

【CNN Prima NEWS “Autor české hymny Josef Kajetán Tyl: Se švagrovou měl sedm dětí. Zemřel před 165 lety”】

【#hymna2018 “Kde domov můj”】

関連記事