ドイツ連邦共和国 国歌「ドイツの歌」

ドイツ連邦共和国 国歌「ドイツの歌」

タイトル

Deutschlandlied(ドイチュラントリート)/ ドイツの歌

作詞

August Heinrich Hoffmann von Fallersleben /アウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン

1798年4月2日ドイツ ファラースレーベン生まれの大学教授で詩人。1823年ライデン大学で名誉博士号を得る。『ドイツの歌』を制作後の1842年、ドイツ帝国教育省に危険人物とされ教職を解任されてしまう。1848年、恩赦によって名誉を回復。翌年、妹の娘で当時18歳のIdavom Bergeと結婚し4人の子供をもうけた。1853年、コルヴァイに移住し、そこで作曲家のリストと知り合い作品を精力的に創作。1874年1月19日脳卒中によりコルヴァイで逝去した。
名を冠した広場がベルリンに、美術館がヴォルフスブルクにある。

知らなきゃ恥?ドイツ人ホフマン・フォン・ファラースレーベンって誰だ?

作曲

Franz Joseph Haydn /フランツ ヨゼフ ハイドン

1732年3月31日オーストリア・ローラウ生まれの作曲家で、“交響曲と弦楽四重奏の父”とも呼ばれる。幼い頃よりハインブルクでチェンバロやヴァイオリン、歌を学んだ。フリーランスの音楽家、教師、作曲家としてキャリアをスタートし、モージン伯爵の音楽監督に任命される。以降人気を博し様々な楽曲を創作。104の交響曲、20以上の協奏曲、60のピアノソナタ、83の弦楽四重奏を残す。1803年の公演を最後に、自宅での療養生活が続き、1809年5月31日、ベートーヴェンを含む友人たちに囲まれウィーンで逝去した。

採用年

1991年8月19日

この日、ヴァイツゼッカー大統領とコール首相との往復書簡で『ドイツの歌』の第3節をこっかとして歌うことが確認された。

成り立ち

最初に生まれたのはメロディだった。オーストリア帝国時代、ハイドンが1796年に「Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz! (神よ、皇帝フランツを守りたまえ、我らが良き皇帝フランツを)」を作曲し、1797年2月12日にオーストリア皇帝フランツII世の誕生日に「皇帝讃歌」として初演される。後にハイドンは「皇帝讃歌」をもとに制作した第2楽章を含む弦楽四重奏曲第77番を発表する。そのため、この弦楽四重奏曲は「皇帝」の副題で呼ばれている。

時が経ち、1815年のウィーン会議によってドイツ語を話す39の国家がドイツ連邦を形成。しかしこれらを取りまとめる組織や決まりもなく大国とはいい難い状況だった。その状況を憂いドイツ統一を願っていたのが、国歌の作詞家となったアウグスト・ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベンだった。ファラースレーベンは、1841年8月26日、当時イギリス領だったヘルゴラント島での休暇中にハイドンの曲を基に「ドイツの歌」を作詞した。同年9月4日には、ハンブルクの出版社フリードリッヒ・カンペが初版を出版。1841年10月5日のハンブルクでの松明行列の時、男声合唱団Hamburg Liedertafelによって歌われたのが公での初披露となった。

1871年、ビスマルクによってドイツが統一されドイツ帝国が誕生すると、イギリス国歌『神よ女王を護り賜え』と同じメロディの『皇帝陛下万歳』が国歌として1918年まで使われる。一方、『ドイツの歌』は国歌にはならなかったものの、人気を博していた。この歌が公式の行事で歌われたのは1890年、ヘルゴラント島がアフリカのザンジバル島との交換で再びドイツ領となった時だった。

『ドイツの歌』が国歌としての存在を高めたのは1922年8月11日、ワイマール共和国憲法3周年記念日の時。フリードリッヒ エーベルト帝国大統領は式典での挨拶で「統一と正義と自由!ここで謳われているこの3つの言葉は、ドイツ内部の分裂と抑圧の時代に、ドイツ人全ての抱く切なる希望を表したものである。これらの言葉は、今後も、より良き未来の構築に向け、困難な道のりを歩む我らの座右の銘となろう」と発言。また同日新聞に掲載された寄稿文には『ドイツの歌』を国歌に推すと書き、事実上の国歌として歌われた。これは議会で分裂していた右派と左派の和解を求めてのことだった。この時代には第4節が作られたが浸透することはなく、主に第3節が歌われていた。

1933年、ナチ党が政権を握ると、国歌として『ドイツの歌』第1節に続けて、党歌でもあった『旗を高く掲げよ』を公の場で歌うようになる。そのため、第二次世界大戦後は連合軍が『ドイツの歌』を処罰の対象にし歌うことを禁止する。国は2つに分断され、西ドイツ・東ドイツという国歌のない国が一気に2つも誕生する。

先に国歌が定まったのは東ドイツだった。“国歌がない国”と紹介したが建国の一ヶ月後にはJohannes R. BecherとHanns Eislerによって『Auferstanden aus Ruinen(廃墟からの復活)』が制作され、1949年11月5日に閣議によって国歌として承認される。1974年の法律改正により統一ドイツという理念が薄れ、同内容が書かれた歌詞に矛盾が発生。そのため以降歌詞がないメロディだけの国歌となる。

一方の西ドイツ側はなかなか国歌が決まらず、西側地域の歌『Trizonesien song』やベートーヴェンの『歓喜の歌』を歌ったり、1 分間の黙祷をするなどしていた。建国直後、複数の党員たちが『ドイツの歌』全3節を国歌とする議案を提出している。しかし、歌詞が歌詞の内容が現実と異なる点もあり、公式に国歌が定められることはなかった。再び『ドイツの歌』が歌われることになったのは1948年、歌うことが禁止されている中、ドイツ帝国党のヴォルフスブルクでの集会の時のことだった。

そんな状態を憂いたホイス大統領が主体となり、1950年8月慣例として国歌として歌われていた『ドイツの歌』に代わるものとして『Ich hab’ mich ergeben(我はこの身を故国に捧げり)』が国歌扱いで使用することとなる。これと同時進行で、詩人のルドルフ アレクサンダー シュレーダーと作曲家のカール オルフに新しい国歌の制作を政府が依頼。しかしオルフが断ったため、オルフの代わりにヘルマン・ロイターが作曲することとなり、完成したのが『Land des Glaubens, deutsches Land(信仰の国ドイツ)』だった。国民に発表されたのは1950年12月31日の大統領によるラジオ演説の場だった。ホイス大統領はナチス時代に歌われていた『ドイツの歌』が再びナチス時代に引き戻すのではないかという強い警戒心と他国からの視線を意識しての行動だった。しかし国民からの人気が得られず国歌にはなっていない。翌年行われた世論調査では、西ドイツ国民の3/4が『ドイツの歌』を再び国歌とすることに賛同しており、1/3の国民が将来第1節の代わりに第3節を歌うことに賛成している。

そんな中で、大統領の想いに反し『ドイツの歌』復活を願うアデナウアー首相が、議会で『ドイツの歌』を歌うという珍事が発生した。この時、議員の大半が感動して一緒に第3節を歌ったものの、同席していた連合軍幹部たちは驚きと不快感を隠さなかったという。それでもアデナウアー首相は1951年初め、自身の誕生日式典において、ボン市庁舎の外階段に居並ぶ人々に、一緒に『ドイツの歌』を歌うように促したりもした。また、1952年にはノルウェーで開催される冬季オリンピックで『ドイツの歌』を使用すると発言。オリンピックは結果として『歓喜の歌』が使われた。首相の活動は政界で広がり、いくつかの州議会で『ドイツの歌』復活に賛同する決議がされていく。

1952年4月29日付けの書簡でアデナウアー首相が大統領に、「ホフマン・ハイドンの歌を国歌として認めます。第3節は国の行事で歌われるべきである」と書いた。ホイス大統領所属政党が『ドイツの歌』を国歌に定めることに賛成したこともあり、同年5月2日の書簡返答で同意する。しかし、これにより国歌が正式に承認されたのか、また3節だけが認められたのかなどバラバラの解釈がされ混乱を招く。この混乱は40年近く論争の種になった。

1990年3月、連邦憲法裁判所が、第3節のみが「刑法によって保護される」と判断をくだす。

1991年11月、ヴァイツゼッカー大統領とコール首相との間で、40年前のホイス大統領とアデナウアー首相との往復書簡にならって『ドイツの歌』第3節をドイツの国歌と宣言する旨の合意が書簡の往復でされた。しかし、国歌を定める法律は定められていない。

EXCELSIOR

憲法での明記はない。

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法律での明記はない。

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刑法90条で国歌のシンボルを侮辱した場合が定められており、3年以下の懲役または罰金が課せられるとしている。

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元の詩“ドイツの歌”は3節あるが、国歌として現在歌われているのは第3節のみ。

1節は、マース川(フランス・ベルギー・オランダ)、エッチェ川・メーメル川(イタリア)、ベルト海峡(デンマーク)を自国の領土と歌う点や、「ドイツよ、すべてのもののうえにあれ」という歌詞がある点から国歌として認められていない。

2節はドイツの女性やワインを賛美するなど言葉遊びの要素が大きいことから国歌に相応しくないとされた。

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西ドイツ国歌として歌われていた『我はこの身を故国に捧げり』は、現在もミクロネシア国歌としてメロディが使われている。

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東ドイツ国歌『廃墟からの復活』は、映画“Wasser für Canitoga”の挿入曲「Good Bye, Johnny」の冒頭がそっくりだとし、挿入曲の作曲家Peter Kreuderが訴える事件があった。訴えは退けられている。『廃墟からの復活』が歌詞無しで使われるようになった1976年、Peter Kreuderのドイツ ツアーでオーケストラが「Good Bye, Johnny」の冒頭部分を演奏すると観客が国歌と勘違いして立ち上がったという珍事があったほど。

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1954 年7 月4 日のサッカーのワールドカップ・スイス大会の決勝で西ドイツが勝利した際、西ドイツサポーターが自然発生的に1 番を歌い問題になった。

歌詞

Einigkeit und Recht und Freiheit

für das deutsche Vaterland!

Danach laßt uns alle streben

brüderlich mit Herz und Hand!

Einigkeit und Recht und Freiheit

sind des Glückes Unterpfand;

 

blüh´ im Glanze dieses Glückes,

blühe, deutsches Vaterland.

(2行繰り返し)

歌詞 日本語訳

統一と正義と自由を

祖国ドイツに!

友よ求めて進まん

心合わせて手を結び!

統一と正義と自由は

幸せの証

この幸せの輝きの中

栄えあれ、祖国ドイツ!

※出典:駐日ドイツ大使館ウェブサイト

歌詞 カタカナ読み

アーイニッヒカイト ウント レヒト ウント フラァアイハイト

フューダス ドイチェ ファーターラント

ダーナハ ラスト ウンス アーレ ストレーベン

ブリウーダーリヒ ミット ヘルツ ウント ハーント

アイニッヒカイト ウント レヒト ウント フラァアイハイト

ズィント デス グリューケス ウンター ファーント

ブリュー イム グランツェ ディーゼス グリューケス

ブリューエ ドォイチェス ファーターラント

国歌に関するリンク

【議会(日本語) 国歌”】
https://www.bundestag.de/en/parliament/symbols/anthem

【法務省 “Bekanntmachung der Briefe des Bundespräsidenten vom 19. August 1991 und des Bundeskanzlers vom 23. August 1991 über die Bestimmung der 3. Strophe des Liedes der Deutschen zur Nationalhymne der Bundesrepublik Deutschland”】
https://www.gesetze-im-internet.de/nhbrfbek/—-.html

【ドイツ連邦共和国大使館(ドイツ語) “Nationalhymne”】
https://www.protokoll-inland.de/Webs/PI/DE/staatliche-symbole/nationalhymne/nationalhymne-node.html

【ドイツ連邦共和国大使館(日本語) ドイツ連邦共和国国歌”】
https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/willkommen/hymne/981158

【連邦政治教育センター “M 02.07 Deutsche Nationalhymne”】
https://www.bpb.de/lernen/angebote/grafstat/fussball-und-nationalbewusstsein/185196/m-02-07-deutsche-nationalhymne/

【dejure.org 刑法第90条”】
https://dejure.org/gesetze/StGB/90a.html

【ドイツ歴史博物館 “August Heinrich Hoffmann von Fallersleben”】
https://www.dhm.de/lemo/biografie/august-heinrich-hoffmann-von-fallersleben/

【ドイツ歴史博物館 “Das “Lied der Deutschen””】
https://www.dhm.de/lemo/rueckblick/das-lied-der-deutschen-1841.html

【MDR “Auferstanden aus Ruinen”】
https://www.mdr.de/geschichte/ddr-hymne-100.html

【wolfsburg “Hoffmann-von-Fallersleben-Museum”】
https://www.wolfsburg.de/hoffmann-museum

【Berlin “Hoffmann-von-Fallersleben-Platz”】
https://www.berlin.de/ba-charlottenburg-wilmersdorf/ueber-den-bezirk/freiflaechen/plaetze/artikel.156628.php

【ドイツ国立博物館 カタログ”】
https://portal.dnb.de/opac/showNextRecord?currentResultId=nid%3D118547356%26dnb.dbsm&currentPosition=0

【ドイツデジタル博物館 Joseph Haydn”】
https://www.deutsche-digitale-bibliothek.de/person/gnd/118547356

【カナダ国立芸術センター “Franz Joseph Haydn”】
https://nac-cna.ca/en/bio/franz-joseph-haydn

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