パラオ共和国 国歌「私たちのパラオ」
パラオ共和国 国歌「私たちのパラオ」
タイトル
BELAU REKID(確認中) /私たちのパラオ
国家統合法では“Belau Er Kid”と表記されている。上記は政府ポータルでの表記。
作詞
合作
複数人による合作という情報があるが詳細不明。
作曲
Ymesei O. Ezekiel /確認中
1921年1月9日パラオ・ガラルド州生まれ。1928年から1931年まで日本人小学校に通ったのち、コロールに移り住み日本人の家で育つ。育て親の日本人は彼を日本人が通う音楽学校に通わせ基本的な音符の読み方など音楽を学ばせた。1936年、15歳の時から作曲活動を始め日本歌謡を作ったと言われている。1946年になると故郷に戻り小学校で教師になるが、優秀さが認められ教育省からコロールに呼び戻されコロールで教員として働いた。働きながら高校を卒業すると、グアム大学やハワイで音楽を学ぶ。ここでも才能が認められ委託統治領での教育を求められた。教師をしながら作曲活動をし、多くの歌謡曲や校歌、賛美歌、現代曲を発表。中には日本語タイトルの楽曲“Nanyo sakura” “Turay Koy”などもあった。1983年まで教師として働き、翌年の1984年5月20日、ハワイのホノルルで逝去し遺体は生まれ故郷に埋葬された。
採用年
1981年
成り立ち
第二次世界大戦後、パラオを含む太平洋諸島信託統治領(現在のミクロネシア)としてアメリカが統治。当時、『Preamble』という憲法の前文を引用した歌詞で歌われる国歌が使用されており、1978年の統一国家離脱後のパラオでも歌われ続けていた。1981年にパラオが独自の憲法を制定すると、議員を代表とする委員会が設けられ国歌の制作に取り掛かる。
この後どのような経緯で国歌が決まったのか不明。
EXCELSIOR
♪
憲法ではシンボルに関する記述はない。
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パラオ統合法において、“Belau Er Kid”として知られている作品が国歌であると定めていたり、演奏中は右手を心臓の上に置くなど記載されている。
歌詞
【1】
BELAU LOBA KLISIICH, ER A KELULUL
EL DI MLA NGARNGII RA, RECHUODEL
MEI ME NG MENGELUOLU ER A, CHIMOL BELUU
EL NGAR EUNGEL A RIRCH LOMEKESANG
【2】
BO DOLEKETEK A KERRUUL, ERA BELUAD
LOLAB A BLAK EL RENG, MA DUCH EL RENG
BELAU A CHOTIL A, KLENGAR REKID
ME BO DORRURT A BEDUL MSA KLISICHEL.
【3】
BO DEKAIUEREKED CHIM, LOKIU A RENG
E DONGEDMOKL RA, DI MLA KOTED
LOMECHELIU A RENGEDEL, MA KLEBKELLE
LOKIU A BUDECH MA BELTIK EL RENG.
【4】
DIOS MOMEKNGELTENGAT, RA BELULAM
EL DI MLA DIKESAM RA, RECHUODEL MEI
BESKEMAM A KLISICHAM, MA LLEMELTAM
LORRURT A KLUNGIOLAM EL MO CHERECHAR.
歌詞 日本語訳
歌詞 カタカナ読み
国歌に関するリンク
【Republic of Palau National Government “National Anthem”】
【Pacific Islands Legal Information Institute “The Constitution of the Republic of Palau”】
【Honorary Consulate-General of Palau in Belgium “GENERAL INFORMATION”】