レソト王国 国歌「レソト、我らの父たる地よ」

レソト王国 国歌「レソト、我らの父たる地よ」

タイトル

Lesotho fatse la bo ntat’a rona(確認中)/ レソト、我らの父たる地よ

作詞

François Coillard/確認中

1834年生まれのフランス人宣教師。1853年プロテスタント学校で学び、1857年9月にレソトに向かう。現地では地元の人たちへの布教活動や教育を行いながら、イギリスとレソトとの折衝役としてレソト王の腹心的な役割も果たす。1858年にボーア人との戦争が始まり帰国するも再度レソトを訪れ再建を行った。1861年には彼女がレソトに到着し結婚。1904年逝去。

※Joshua Pulumo Mohapeloaが制作したという情報もあり。

作曲

Ferdinand Samuel Laur/確認中

1791年ドイツ Markdorf生まれ。音楽教師、作曲家。音楽教師を経て1824年にはスイス・バーゼル聖歌隊を設立し指導にあたるなど、近代バーゼルの合唱文化発展に寄与した。その功績からバーゼル市より市民権を得ている。1846年体調の悪化を理由に家族と共にKreuzlingen近郊の田舎町Egelshofenに移り住んだ。1854年7月2日逝去。

採用年

1967

成り立ち

バーゼル聖歌隊のFerdinand Samuel Laur が楽団のためにドイツの作家で哲学者のFriedrich Schlegelが書いた詩“自由”にメロディをつけたのが始まり。詩は神聖ローマ帝国の復活を願ったものだった。また歌詞を変え、学生によって“人生の宝物”として酒場でも歌われ、フランスでは“祖国の愛”として広まった。

宣教師のFrançois Coillardはアルザスでの修行中にこの作品に出会い、“祖国の愛”を元にソト語の詩をつけたのではないかと研究者は見ている。“レソト”というタイトルの5節の曲はすぐに国中で歌われるようになり、徐々に一種の民謡へと発展。1870年にレソトの歌集としてソト語版の歌詞が印刷され学校教科書で掲載された。

イギリスの植民地時代は『神よ女王を護り賜え』が歌われていたが、独立した翌年の 1967 年、“レソト”の1節と5節を採用しレソト、我らの父たる地よ』として国歌となった。

EXCELSIOR

憲法第3条で議会での立法によって定められるとしている。

♪♪

法律はあるようだが確認できなかった。

刑法77項では国歌に対する侮辱行為が犯罪であることが明記されている。

歌詞

Lesotho fatše la bo-ntata rona
Hara mafatše le letle ke lona
Ke moo re hlahileng
Ke moo re holileng
Rea le rata.

Molimo aku boloke Lesotho
U felise lintoa le matšoenyeho
Oho fatše lena
La bo-ntata rona
Le be le khotso.

歌詞 日本語訳

レソト、我らの父たる地よ、
あなたはすべての中で最も美しい。
あなたは我らに誕生を与える、
あなたの中で我らは養育され
そしてあなたは我らに親愛だ。

主よ、我らはあなたにレソトを保護することを頼む。
我らを闘争と艱苦から自由に保て。
おお、我らの土地、
我らの父たる地よ、
あなたが平和を持たんことを。

歌詞 カタカナ読み

 

国歌に関するリンク

【Government portal About Lesotho”】

【Government portal Lesotho Constitution”】

【LesLII “Penal Code Act, 2012”】

【EMBASSY OF THE KINGDAM OF LESOTHO IN IRELAND “ABOUT LESOTHO”】

【駐日レソト大使館 基礎データ”】(アーカイブ)

【Universität Basel “«Land unserer Väter»: Lesothos Nationalhymne wurde in Basel komponiert”】

【UB Basel Blog “Lesothos Nationalhymne – Made in Switzerland!”】

【NZZ “Die wundersame Geschichte einer Schweizer Melodie, die zu Lesothos Nationalhymne wurde”】

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