モンテネグロ 国歌「おお、明るい5月の夜明け」

モンテネグロ 国歌「おお、明るい5月の夜明け」

タイトル

Ој, свијетла мајска зоро(確認中) /おお、明るい5月の夜明け

キリル文字では“Oj svijetla majska zoro”

作詞

劇中歌“ОЈ ЈУНАШТВА СВИЈЕТЛА ЗОРО”をСекуле Дрљевићаが編集

Секуле Дрљевића /確認中
1884年9月7日モンテネグロ・コラシン近郊生まれ。法学者で政治家。高等教育を受けるためオーストリア・ハンガリー帝国に留学したのち、ザグレブ大学法学部で博士号を取得。帰国後、モンテネグロ公国の法務省長官を務め、王国時代には法務大臣に就任。その後、国会議員になるも議員になる条件である30歳に満たしていないことが発覚し辞任に追い込まれる。しかし、その後財務大臣に就任している。モンテネグロのナショナリズムを高めた人物で知られ、第二次世界大戦中にモンテネグロが独立した国歌であることを宣言した。第二次世界大戦中はファシストの協力者として活動したとして、連合軍や同国のパルチザンらに追われる身となった。祖国を追われオーストリアに逃げ隠れていたが、1945年11月10日にパルチザンによって殺害された。

作曲

制作者不明の劇中歌“ОЈ ЈУНАШТВА СВИЈЕТЛА ЗОРО”をЖарко Мирковићが編曲

Жарко Мирковић /確認中
1952年8月15日にモンテネグロ・ツェティニェ生まれの作曲家。ニューヨーク大学を卒業後、デンマーク電気音響音楽研究所へ。セルビアで活動し1999年に帰国するとツェティニェ音楽アカデミーで働く。国際的に活動し、モンテネグロ大学の副学長や、ポドゴリツァ音楽アカデミーの副院長、ユーゴスラビアの著作権保護団体である SOKOJ の理事長を歴任。現在はモンテネグロ音楽センター長を務めている(2024年3月時点)。

採用年

2004年7月12日

成り立ち

モンテネグロ最初の国歌『Ubavoj nam Crnoj Gori』(作曲:Jovana Sundečića)の始まりは1870年10月17日にCetinjskoj図書館で初めて公に上演され、その後ニコラ1世が州歌と宣言したところから始まる。当時はモンテネグロ公国としてオスマン帝国と独立戦争の真っ只中だった。
現在の国歌『おお、明るい5月の夜明け』の基礎が出来上がったのは1937年。元々は1863年に“グラホヴァの戦い”という劇中歌として発表され、以降様々な歌詞で歌われ親しまれていたОЈ ЈУНАШТВА СВИЈЕТЛА ЗОРО(作詞:Jovan Car、Obrad Vitković 作曲:不明)という作品で、これをСекуле Дрљевићаが歌詞の一部変更や追加し『おお、明るい5月の夜明け』が生まれた。
第一次世界大戦後の1917年には南スラブの国々がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国を建国。ユーゴスラビア王国に国名を変えると法的根拠がないまま、クロアチア王国の事実上国歌『我らの美しき祖国』、カルニオラ公国の賛歌『進め 栄光の旗』、セルビア王国国歌『正義の神』をまとめた通称『ユーゴスラビア王国国歌』が慣例として国歌として歌われた。
その後、第二次世界大戦が勃発しドイツ軍に占領され王国が崩壊。現在の国歌の歌詞を制作したСекуле Дрљевићаがモンテネグロ人のアイデンティティを訴えると人気を博し、ナチスと協力関係を築き発言力を高めていった。1937年にСекуле Дрљевићаが変更を加え6節からなる作品として“himna crnogorskih gorštaka”というタイトルで発表。1944年には“Vječna naša”というタイトルで7節に増えてСекуле Дрљевићаが発表された。
戦後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ユーゴスラビア連邦共和国時代には『スラブ人よ』が国歌として歌われる。
2003年にユーゴスラビア連邦が解体されると、同年、セルビア=モンテネグロが建国。翌年、国歌をセルビアの『正義の神』、モンテネグロの『おお、明るい5月の夜明け』の2部構成からなる国歌の採用を両国首脳で合意したものの実際に採用されることはなかった。
モンテネグロが独立求める中で、2004年7月12日“モンテネグロ国家の象徴および建国記念日に関する法律”が公布され『おお、明るい5月の夜明け』が法的根拠をもって国歌として1、2、5、7節が採用された。採用されたメロディはЖарко Мирковићによって編曲が行われた。実際にモンテネグロが独立したのは2006年のことだった。

EXCELSIOR

憲法4条で国歌が国の象徴であり、“Oj svijetla majska zoro”が国歌であると記載されている。

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“モンテネグロの国家の象徴および建国記念日に関する法律”では国歌の扱いや侮辱した際の罰則が定められている。2004年の制定時には本当に国歌として相応しいのかが議論された。

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Секуле Дрљевићаはイタリアのファシスト政権の協力者だとされ、彼が制作した歌詞を歌うことに反発を持つ人もいる。特に歌詞の緑字部分はСекуле Дрљевићаの完全な創作であることから、2004年に国歌の歌詞としてこの部分が法律で定められるか議論が起こった。

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タイトルの“5月”というのはСекуле Дрљевићаが1941年5月にクロアチアから帰国した際のことを指していると考えられている。

歌詞

Oj svijetla majska zoro,

Majko naša Crna Goro,

Sinovi smo tvog stijenja

I čuvari tvog poštenja.

Volimo vas, brda tvrda,

I stravične vaše klance

Koji nikad ne poznaše

Sramotnoga ropstva lance.

Dok lovćenskoj našoj misli

Naša sloga daje krila,

Biće gorda, biće slavna

Domovina naša mila.

Rijeka će naših vala,

Uskačući u dva mora,

Glas nositi okeanu,

Da je vječna Crna Gora.

歌詞 日本語訳

 

歌詞 カタカナ読み

 

国歌に関するリンク

Vlada Crne Gore “Zakon o državnim simbolima i Danu državnosti Crne Gore”

Constitute “Montenegro 2007”

Radio Free Europe “Da li su stihovi crnogorske himne “Oj svijetla majska zoro” neonacistički i fašistički?”

Radio Free Europe “Oštre polemike oko himne”

Radio Free Europe “Kralj persona non grata u novoj državnoj himni”

RT “Кад је правда стигла Секулу Дрљевића: Четничка тројка за црногорског усташу”

CANU “Žarko Mirković”

【Културни центар Новог Сада “СЕКУЛА ДРЉЕВИЋ – ОД СРПСКОГ РОДОЉУБА ДО КВИСЛИНШКОГ ИДЕОЛОГА ЦРНОГОРСКОГ ЕТНИЧКОГ ПИТАЊА”】

【Politika “Istorijat crnogorske himne”】

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