誰かに殺された制作者たち
死は誰にでも訪れるもの。しかし“その時”が訪れるタイミングや原因は様々で「死は平等」というけど、平等という言葉が不条理にしか思えないタイミングや死因がある。国歌の制作者にとっての死は多くが名声を得たのちに訪れるが、国歌が政治や思想が強く反映されがちなため、その制作者は他者から恨みを買われることも。特に、国歌に採用されるような作品を作る人物は、主義主張がはっきりして目立ちがちで、その分対極の考えを持った人たちから強く疎まれた。その強すぎる疎む感情が制作者の命を突然奪うこともあったのである。
射殺されたもの
ベネズエラ国歌『勇敢なる国民に栄光あれ』を作曲したファン・ホセ・ランダエタも、疎まれ命を強制的に絶たれた人物の一人。独立直後、スペインの影響を残すことを主張していた王党派が実権を握ると迫害を受ける立場に。逃亡するも捕まってしまい1814年12月10日に銃殺されてしまう。享年34。作詞をしたビセンテ・サリアスも王党派に捕まり38歳で銃殺されている。彼は処刑の直前にスペインと王党派に対してこんな言葉を残した。「天国で彼らがスペイン人を認めるなら、全能の神よ、私は天国を放棄する」。
東ティモール国歌『祖国』の作詞者フランシスコ・ボルジャ・ダ・コスタも銃殺されている。インドネシアからの独立運動に積極的に参加していたことで、1975年のインドネシア軍侵攻の際、射殺リストに載り自宅前で殺された。遺体は長年行方不明になっていたが、40年以上が経った2022年に国が参加した調査で発見されている。
独立運動に絡んで人を殺すのは外敵ばかりではない。ギニアビザウ国歌『我が愛しき祖国』を作詞したアミルカル・カブラルは独立運動のトップとして活躍していたが、独立直前の1973年に彼のやり方に不満を抱いていた同じ独立運動グループに属するライバルに銃殺されている。
アミルカル・カブラルはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党を設立して書記長に就任し、ギニアビサウとカーボベルデの独立に貢献した。弟はギニアビサウ初代大統領ルイス・アルメイダ・デ・カブラル。
撲殺されたもの
殺されたことはないけれども、銃殺というのは痛みが少ないように見える。「バン」という銃声音と共にいつの間にか体に穴が空き視界が暗くなる。ただ007やジャッカルのような殺し屋にしてもらわないと、こんな簡単には死ねないだろう。松田優作みたいに「なんじゃこりぁ〜」っというくらいの時間があると辛いに違いない。一方、かなり苦しそうだと思うのは、撲殺じゃないだろうか。痛みを感じながらジワジワと死が近づく。これは想像するだけで苦しい。赤道ギニア国歌『赤道ギニア国歌』を作詞したアタナシオ・ンドンゴ・ミヨネは独立運動の指導者で、独立後は外務大臣になったがクーデターを起こそうとして失敗し警備隊に捕まってしまう。この時に足を骨折したため病院に運ばれるまでは良かったが、退院後に移送された刑務所で暴行を受け医師の診断もされないまま亡くなった。話が変わるが、この人物はユニークな恋愛遍歴を持っており、赤道ギニアの独立運動を続けるためガボンに亡命するのだが、亡命中にガボン初代大統領の娘と結婚。2年で離婚しアルジェリアに亡命し様々なアフリカ諸国の指導者らと面会する中で出会ったカメルーンの独立運動家Félix-Roland Moumié(この人物はフランスの諜報機関により毒殺されている)の未亡人Marthe Ekemeyongと再婚している。となんだかモテるのだが破茶滅茶。優秀さに加えモテるという、嫉妬要素満載の人物だった。
赤道ギニアの独立運動に参加したことで通っていた神学校を追放され、スペインに渡り法律を学んだのち、ガボンのリーブルビルに亡命。1954年に赤道ギニア民族解放運動を設立し指導者となった。
毒殺されたもの?
毒殺というのも辛そうだ。現代のように科学が発達していれば違うだろうが、証拠が残りにくい殺害方法でもあり、毒殺された“疑惑がある”と言われている人物が2人いる。
一人はモルドバ国歌『我らの言語』を作詞したアレクセイ・マテエヴィチ。第一次世界大戦で前線に赴いた際にチフスに罹患し死亡したというのが一般的だが、彼の愛国的な活動から組織的な暗殺があったのではないかと主張する研究者がいる。ちなみに毒殺とは関係ないが、彼が首都キシナウで暮らしていた家は駐モルドバ ヨルダン王国名誉領事館として現在使用されている。もう一人はハンガリー国歌『賛歌』の作詞家フェレンツ・クルチェイで、彼もオーストリア帝国からリベラルな思想を危険視され毒殺されたという説がある。
このような話で、日本政府が犯人だとする陰謀論があるのをご存知だろうか。中国国歌『義勇軍行進曲』を作曲した聶耳は神奈川県藤沢市にある海水浴場で溺死しているのだが、これを日本政府の陰謀で殺されたという説がある。しかし、これは研究者からは否定されていて、毒殺説と同様に想像の域を出ない。
藤沢市にある聶耳の記念碑で毎年、聶耳を追悼する式典が行われている。
国歌を制作した人物たちはすばらいし才能を持ち、その才能が認められ栄誉を得て国民達から尊敬される存在だ。ただ、今はそうであっても彼、彼女らが生きていた時代が同じような境遇であったかは必ずしもそうではなく、秀でた存在だからこそ疎まれ憎まれることもあったのである。