合言葉は『ゆっくり しかし着実に』  日本東ティモール協会 北原巌男会長 インタビュー【前篇】

“東ティモール”と言われて何を思い浮かべますか?

場所すら出てこない人も多いのではないでしょうか?

筆者は『作曲者が失踪した国歌をもつ国』というイメージがあるのですが、

この情報も確かなものではありません。日本で東ティモールの情報を得ることは皆無と言えます。

そんな東ティモールの正式名称は

東ティモール民主共和国

インドネシアの南東、ティモール島の東半分と飛び地からなる岩手県ほどの広さの国です。

戦前、ポルトガル・日本による占領時代があり、日本軍撤退後はポルトガルが再び占領。

1974年に同国の撤退が決まると独立運動が起こるのですが、

1975年11月に独立を宣言すると、それに反対するインドネシアが武力介入し同国に併合してしまいました。

それ以降の独立回復闘争で多くの犠牲が出ました。

念願の独立回復を果たしたのは2002年。

日本との関わりもあるにもかかわらず馴染みの薄い東ティモール。

そんな国に惚れ支援を続ける方がいらっしゃいます。

今回は、駐東ティモール日本大使を経て、

現在は自身が設立した日本東ティモール協会の会長を務める北原巌男さんにお話しを聞きました。

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今回インタビューした北原巌男さん

 

縁が無かった東ティモールとの出会い

―東ティモールと関わりを持ったのはいつですか?―

2002年の4月です。私は防衛庁の担当者として、

当時の小泉総理大臣と東ティモールに展開している自衛隊のPKO活動の視察に行ったんですね。

海外での自衛隊によるPKO活動を視察した総理大臣は小泉総理が初めてでした。

小泉首相が一番に指示したのは「東ティモールの人たちとの間に壁を作るな」なんですね。

当時、自衛隊の人たちは上から目線ではなく、現地の人ととても良い関係を築いていました。

そんな事もあり日本と東ティモールとの関係は1942年2月から45年の8月まで日本軍が占領していた歴史がありますが、今はとても良い関係です。

 

―当時行った印象はいかがでしたか?―

まだ独立して間もない頃でしたから治安も完璧とは言えませんでした。

なので首都のディリ港にホテルシップがあって船上で寝泊まりしたんです。

それが外国人にとっては普通でした。

 

―その後、暫らくして大使として再び行かれるわけですね―

2004年に自衛隊が撤退して4年後の2008年です。

2002年のPKO視察以来、東ティモールとの関わりはありませんでした。

すでに退官していたのですが、突然大使就任の連絡が入ったんです。

子供は結婚して独立していて女房と2人だけでしたので、女房と一緒に行こうと考えていました。

ただ、東ティモールは独立してからも色々あったんですね。

連絡が入った年の2月には大統領への襲撃事件もあったし、僕らが行った時は外国の軍隊がいっぱいいました。

国内避難民もいましたし。

そんな事もあって女房が

「何があるか分からないから行くなら覚悟していかないといけない。思い残すことが無い方がいいわよ」

って言うんですよ(笑)

僕は長野県出身なんだけど上高地に行ったことが無い。

あと黒部に行ったことが無いということで2人で観光しました。

それで思い残すことはないということで東ティモールに行ったんです。

 

“点と線”を見ることの大切さ

―死んでもいいという覚悟で行ったわけですね―

東ティモールというとそういうイメージだったんですね。

ところが行ったら確かに色々あるんだけど、そこまでひどくはなかったんです。

そこで僕がいつも自戒を込めて言うのは“点と線”なんですね。

僕の中には紛争があって2002年に1週間ほど行ったという“点”がある。

そして2008年に再び東ティモールに行くという“点”が出来ます。

その点と点の間には6年間あったわけです。

だけど、そこで僕が勝手に「今もあの時の様なんだろうな」って現在までの線を引いちゃうんですね。

自分なりの想像をして東ティモールは大変な所だと。

でも実際に現場行くと彼らが二度と紛争があってはいけないと懸命に努力してきた事実の積み重ねがあるんですよ。

そういうのを考えていないと彼らの地道な努力が分からないわけです。

決めつけをしていた僕は恥ずかしい思いをしたんですね。

 

“点と線”の話は、防衛省に所属していた時、沖縄に赴任した際もありました。

例えば、米軍の軍用機の墜落事故が起きたとします。その時人的被害が無かったら不幸中の幸いで良かったという人がいる。

でも基地をずっと抱えてる沖縄の人は違うんですね。

「北原さん、長い歴史の中の“この事故であり事件”なんです。

この事故あるいは事件だけを見て判断しないでください。

線上の点で考えてください。」

それぞれの点だけではなくて、線上の点で見てくださいと。

沖縄の人に言われたんです。確かにそうです。

今回は被害が無くても、

過去学校に墜落して多くの児童が犠牲になった事故をはじめ様々な事故や事件の歴史あるわけですよ。

点と線を大事にしなきゃいけない。

共通するのは100%現地の人たちの気持ちを理解することは難しいけれど努力するのは必要だという事。

もし東ティモールに行く前「思い残すことがないように」という女房との会話を東ティモールの人に聞かれたらと思うわけです。

ある意味思いあがりですね。

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筆者が理解できていないと思ったら積極的に図にしてくれたりする。とても誠実な方だ

 

 

体感した東ティモールの魅力

―理解する努力というのは具体的にはどんな事をされたんですか?

日本の人たちの東ティモールというと2つあるんですね。

ひとつは『何も知らない』

もうひとつは『知っていてもネガティブなイメージが強い』

自分もそうでした。

だから大使として赴任した時、実際どうなのか出来るだけ現場を見たいと思ったんです。

そこで日本から悪路でも耐えられる私有車を持って行きました。

公務以外の土日祝日も含め各地をぐるぐる周りましたよ。日帰りできない所もありますから。

 

―周られてみてどうでしたか?―

凄い親しみを感じる国でした。

子供たちを見ていると、ちょうど自分の子供の頃と同じだなぁと思いましたね。

こんなこともありました。

公務で大使館の車で走っていたら雨で橋が落ちちゃって先に進めない時があったんですね。

戻るしかないと思っていたら村人たちが出てきて「待て」と言うんです。

なんだろうと思っていたら、彼らがナタをもって大きなヤシの木を切ってくるんですよ。

みんなで橋を作ってくれたんです。

橋が出来て車が渡った時はみんな拍手ですよ。

感動しましたね。

 

パンクしたこともありました。

その時、僕と女房とドライバーと大使館員がいたんですが、泥道というのもあって押しても動かない。

困っていたら村人たちが押してくれるんですよ。

更にそれだけじゃなくて、ジャッキの代わりになる板を持ってきてタイヤを取り替えてくれたんです。

いろんな所で親切なんですよ。親しみが湧きますよね。

ですから大使として東ティモールにいた3年間は楽しかったです。

本当に楽しかった。

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聞いている方も行きたくなる様なエピソードが次々と出てくる

 

これまで縁の無かった東ティモールの魅力に直接触れた北原さん。

帰国後、東ティモールを支援する協会を立ち上げ精力的に活動されます。

後半は協会の活動について詳しく伺います。

 

【北原巌男(きたはら・いわお)】

1972年防衛庁に入庁。那覇防衛施設局長、運用局長、管理局長、官房長などを歴任。

2005年に防衛施設庁長官に就任する。

退官して1年後の2008年、駐東ティモール民主共和国特命全権大使に就任。

2013年に一般社団法人 日本東ティモール協会を立ち上げ現職。東ティモールへの支援、同国と日本との交流促進のための活動を行っている。

 

【日本東ティモール協会】

HP http://www.lorosae.org/

メール japan@lorosae.org