国歌はどこから始まった? 起源から世界に広がるまで
リヒャルド・ワーグナーは「国歌は国民の気質の鏡」という言葉を残しています。しかし“国民の気質”は決して一言で表すことができない複雑なものであることを誰もが知っている現代において、この言葉に違和感を感じる人は少ないくないと思います。しかし、「国歌が近代国家史の鏡」ならば正しいと言えるかもしれません。国歌の誕生、変化、広がりを追うと人類が築いてきた国家の歴史を振り返ることができるのです。
国歌の起源は、ヨーロッパの絶対王政国家で生まれた君主への賛歌です。この時代の国家は、統治者の家柄や実績、王権神授説に代表される神の代行者として権力を集中させた“王”や“領主”という存在をシンボルとする集合体で、のちの国歌と呼ばれる音楽は儀式で統治者の威厳を高める目的で使用される賛歌でした。神を讃える讃美歌から発展し西洋クラシック音楽が誕生したわけですが、神の代行者であることを根拠に権力を集中させた王を讃える音楽に讃美歌のメロディが使われることは自然だったわけです。
国歌草創期は、絶対王政でありながら王や貴族の力が弱まり、市民(主に商人)が力を持ち始めた時代でした。このパワーバランスの変化に伴い西洋音楽にとっても変化が起きた時期であり、これまで宮廷や貴族の屋敷などで楽しまれていた音楽は、市民でも楽しめるようになっていきます。音楽史でいうとバロックから古典派への移行期です。王を讃える賛歌が特別な場でのみ演奏されるのでなく、市民が公の場で歌うものとして変化したのが国歌なのです。この移行期に国歌が誕生し世界へ広がっていきました。
統治者を讃える賛歌の中で最も知られているのは、現在もイギリス国歌として使用されている『神よ国王を護り賜え』でしょう。あとで書きますが、史上最も多くの国でメロディが使われた国歌でヨーロッパだけでなく世界中で流されました。歌詞付きの『神よ国王を護り賜え』が演奏されたのは1745年。追放されたテュアート朝を復権させようとするジャコバイト蜂起において政府軍が反乱軍におされる中、愛国心をかき立てる目的で演奏された軍歌や愛国歌のような存在でした。歌詞は王を讃える内容で、まさに王のための音楽だったのです。
【イギリス国歌:神よ国王を護り賜え】
神よ我らが慈悲深き
国王陛下を守りたまえ
我らが高貴なる国王陛下よ永らえよ
神よ我らが国王陛下を守りたまえ
彼に勝利 幸福と栄光を捧げよ
御代の永らえんことを
神よ我らが国王陛下を守りたまえ
国歌の存在感が増したのは1789年に始まったフランス革命です。1792年に軍人が制作した『ラ・マルセイエーズ』はフランス国内で反絶対王政の象徴となり、国民の士気を上げ団結力を高めました。結果、王ではなく国民が主体となって国が運営される国民主権国家フランスが誕生します。この頃、“国民国家”という国民を一つの民族として捉える考えが広がり、国という単位で人々をまとめるために国歌の重要性はさらに増していきました。
【フランス国歌:ラ・マルセイエーズ】
行こう 祖国の子供たちよ
栄光の日がやってきた!
我々に対して、暴君の
血ぬられた旗が掲げられた
血ぬられた旗が掲げられた
聞こえるか、田畑で
あの凶暴な兵士たちが咆哮するのが?
奴らは汝のもとまで来る、
我らの息子や妻の喉を掻き切りに!
武器をとれ、同志たちよ、
隊列を組め、進め、進め!
けがらわしい血が我らの畑の畝を濡らさんことを!
この国民をまとめる歌に興味を持ったのは、絶対王政を守るためにフランス国民と戦争状態だった王政を敷いていた周辺国です。これらの国々が、『ラ・マルセイエーズ』のカウンターパートとしてイギリス国歌『神よ国王を護り賜え』のメロディを使用した国歌や愛国歌を作っていきました。音楽が大きな力になることがわかったわけです。プロイセン、ハノーヴァー、ザクセン、ブラウンシュヴァイク、ワイマール、ルクセンブルク、デンマーク=ノルウェー、ドイツ帝国、ロシア帝国など多くの国が『神よ国王を護り賜え』のメロディを使った国歌や愛国歌を制作しています(フランス革命以前に作られたものもある)。
この『神よ国王を護り賜え』大繁栄時代の名残として、現在のリヒテンシュタイン国歌のメロディは今でもイギリス国歌のものが使用されています。両国のサッカー代表が対戦する試合前の国歌演奏では同じメロディが2度流れる珍事が起こることも。
君主を讃える目的で作られた『神よ国王を護り賜え』と、打倒王政で作られた『ラ・マルセイエーズ』。この2曲の戦いの最中に、のちのドイツ国歌のメロディとして使われる「神よ、皇帝フランツを守り給え」を作曲した人物がいます。 “交響曲の父” “弦楽四重奏曲の父”と呼ばれる古典派を代表する作曲家ハイドンです。1797年、神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世のために作られた曲で、『神よ国王を護り賜え』と同様に讃美歌を感じさせるメロディをベースにする一方、『ラ・マルセイエーズ』で使われているリフレインを駆使している点が、この時代を象徴しています。宮廷音楽家の大家で王政賛成派だったハイドンは『神よ国王を護り賜え』をベースにしたものの、反王政派が歌う『ラ・マルセイエーズ』が持つ人心を掴む優秀なメロディ構成を無視することはできなかったのでしょう。ハイドンは2度渡英しており、手記で宴会での乾杯の際にイギリス国歌が演奏されたことに触れ「イギリスでは、飲むとここまで分別をなくすものである」と綴っています。この頃には、王の賛歌の神聖さは失われ、酒を飲みながら歌う曲になっていたことがわかります。こうして王や貴族のものだった国歌は、市民のものになっていたのです。
余談ですが、多くの国歌が誕生した時代のヨーロッパでは、クラシック音楽が盛り上がっていて先ほど登場したハイドンのような誰もが知る著名なクラシック音楽の作曲家(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなど挙げたらキリがない)が国歌のメロディを作ったり、メロディを自身の作品に利用したりしています。西洋クラシック音楽のルーツが神を讃える聖歌であることからも、神の代行者である王を讃える国歌はクラシック音楽の作曲家と相性が良かったのです。
『ラ・マルセイエーズ』が絶対王政の国々を脅かしていた時代は、封建社会から主権国家へ移行する時代でもありました。封建社会に比べ経済力を高め国力を強くする主権国家は多くの国で導入され、新たな国のあり方として“国家はこうあるべき”というパッケージ化されて世界に広がっていきます。パッケージ化された主権国家の要素のひとつとして国歌も世界に広まっていきました。日本の『君が代』も、パッケージ化された主権国家を導入する流れの中で1880年に制作された国歌の一つなのです。
賛歌(国歌)を国民が歌うものにしたフランスでは革命後、反王政歌で国民団結の歌でもあった『ラ・マルセイエーズ』がナポレオンの帝政下で禁止されてしまいます。国歌は再び君主賛歌の時代になるかと思いきや、時代は逆行しませんでした。世界に広がる国歌において変革が起こったのは19世紀の中南米です。王がトップに君臨する宗主国のヨーロッパ諸国を嫌い独立した中南米の国々に『ラ・マルセイエーズ』が渡り、反王政賛歌として人気を得ます。のちに誕生する中南米諸国の国歌に多大な影響を与え、キューバ国歌『バヤモの賛歌』は『ラ・マルセイエーズ』を参考にして制作されましたし、アルゼンチン、チリ、ペルーでは王が敵であると明言する歌詞が採用されました。これまで当たり前だった、”国歌は王を讃える歌”ではなく“国民(国)を讃える歌”になったのです。
現在、王政時代に作られた国歌を使い続ける国もありますが、大半の国歌は君主制国家による支配を脱した国が独立後に作ったものです。1900年に50もなかった主権国家の数は現在200(地域と表現されるものも含む)に届こうとしており、これら全ての国が国歌やそれに類するものを持っています。つまり、国歌の誕生は国の誕生に密接に関係しているわけです。下のグラフは、どの時代に幾つの国歌が誕生したかを可視化したものです。
これを見ると5度の国歌誕生期があることが分かります。1920年前後では、ロシア革命、オスマン帝国敗戦、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊があり、民族自決という言葉が登場し多くの国が生まれ国歌も誕生しました。1940年代は第二次世界大戦が終わりアジア諸国が独立、そして国連誕生に伴うソ連の動きが影響し、1960年代にはアフリカ大陸をアフリカの人々の手で取り戻そうとする考え方”パン・アフリカニズム”が活発になり多くのアフリカ諸国が独立。1970年代になると大洋州の独立や東西冷戦が要因の一つでもあるアフリカやアジアの政変(クーデターなど)。1990年代ではソ連崩壊に伴い多くのソ連邦構成国が独立しました。国歌の動きは、主権国家の増加に伴って活発になるわけですが、クーデターなどの政変や大国の事情に伴っての誕生もあることがわかります。
ヨーロッパで神を讃える讃美歌からスライドし君主を讃える目的で誕生した音楽を起源に持ち、君主らと戦う国民国家誕生の過程で国民をまとめる象徴となった国歌。その国を表現するバラエティに富んだ国歌たちが様々な理由で誕生してきました。現在でも新たな国歌が誕生・変更・議論が行われ、国々の動きに合わせて国歌も動き続けています。まさに国歌は主権国家誕生からの人類史を表す鏡でもあるのです。